お疲れ様です。
9月になってもまだまだ暑いですが、日中と違い朝夜は少しずつ秋の気配を感じられるようになりました ( ´・ω・)
いやぁ、これが季節の移り変わりというやつでしょうか。実に感慨深いですね。
やはり四季のある日本って素晴らしい。
さて、そんな日本に住んでいる私達日本人ですが、よく「性善説」で物事を考え過ぎると言われています。
たとえば
・物を取っていく人が居る、という考え方をあまりしない
・人が困るような事をする人はあまりいない
・どんな悪人にも同情すべき事情がある
などなど。
有名な例えだと
・日本では財布を落としても必ず帰って来る
というのもそのひとつでしょうか。
実際に弊社の外国人実習生が買い物先でカバンを忘れたときも、
「大丈夫!日本だから!」
なんて普通に言ってましたw
まぁたしかに戻ってはきたのですが・・なんの疑いもない純粋な眼でそう言われると、少し心が痛みますねw (ノД`) アイタタタ
ということで、今回は性善説の「善」って一体何なのか、ということについて少し考えてみました。
結論からいいますと、それは「無」であり、「当たり前」の中にあるものではないか、と私は考えます。
たとえば人と話すとき。
相手に聞き取りやすいように普段より丁寧に話すこと、ありませんか?
たとえば人と歩いているとき。
相手の方が遅い場合は歩幅を合わせてゆっくり歩くこと、ありませんか?
落下しそうな物があるとき。
何も言われなくてもそっと置きなおすこと、ありませんか?
本当の「善」というのは、そういった「無意識」の中にあるような気がします。
そして「無意識」だからこそ、いつしか「当たり前」になってしまい、気がつかなくなってしまう・・・
そう考えると「当たり前なことに感謝しましょう」や「なんでもないようなことが 幸せだったと思う ♪ (´Д`) ♪♪」なんて言葉が、より身に沁みてきませんか?(。-`ω-)ウンウン
「何か良い事をしよう!」と考えて善意の押付けをするのではなく、「自然な行動の結果が善になっていた」となれるよう、今後さらに「心」を磨きたい。そんな風に私は思う、今日この頃でした。
令和6年度 西条商工会議所青年部スローガン
「心」
ややや!
どうも、お後がよろしいようで (笑) _(._.)_